ウルトラマンの神秘性 2
ウルトラマンの絶対的な部分が崩れてしまうストーリーは主に実相寺監督&佐々木脚本で描かれる。完全に子供の夢として実現してしまった元は単なる落書きのガヴァドンの回。ある国の宇宙飛行士が事故により見棄てられてしまい怪獣となって復讐しに来るジャミラの回など。
ガヴァドンに完全に感情移入してしまった子供達はあろうことかガヴァドンと戦うウルトラマンに「帰ってくれ!」と言う始末。ウルトラマンはガヴァドンを倒す事なく『宇宙の星』とし子供達に七夕の夜に会えると言う。しかし当の子供達は雨が降ったらどうするんだ? と夜の星座になって映るウルトラマンに問いかける。
その答えをウルトラマンは答える事なく番組は終了する。結局答えを出さぬまま終わるとはある意味リアルだがウルトラマンの絶対性に疑問符が付く決定的な場面だ。近年の作品ならスパークドールズにするとかになるのだろうか。ガヴァドンは寝てばかりの怪獣だったがそのイビキが原因で退治される事に。しかしガヴァドンは子供の落書きから生まれた。その回においての科学特捜隊やウルトラマンよりも遥かに上の『夢』として現れた。そしてその夢を遥かな宇宙の遠くに追いやったのは、ウルトラマン……
ジャミラの回は、言わずもがな。文に起こすより実際にみてもらった方が早いのだがこの回のウルトラマンの役割はジャミラという『怪獣』を退場させるための舞台装置のような役割である。ジャミラを悲しき存在とするか、あるいは無関係の人々を脅かす悪とするかは見る人それぞれだが、ジャミラの回『故郷は地球』の最大のミソはジャミラの正体が人間であるという事である。その元は人間のジャミラにトドメを刺したのは宇宙人のウルトラマン。ジャミラの例が特別と割り切っていてもウルトラマンの存在、そして作品のフォーマットそのものに揺さぶりをかける回だった。
ウルトラマンという作品そのものに揺さぶりをかけるのは主に実相寺&佐々木コンビの作品。というのがウルトラマンファンの通例なのだが、ウルトラマンの世界観構築に一番貢献した金城哲夫氏も中々のエピソードをぶっ混んでくる。
『まぼろしの雪山』では豪雪地の飯田山付近スキー上で村人達がいくら遭難しても必ず一人だけ無事生還する少女雪ん子がその特異性から村人に迫害されるという中々に強烈なエピソードだった。
この回で雪ん子はイデ隊員に科学特捜隊を怪獣を倒してばかりいる怖い人達と言い放つシーンがある。このシーン、雪ん子は村人と仲良くしたいと言ってはいたが一方で怪獣側に立ってしまってもいるので人間社会の仲間入りを出来ない事をカミングアウトしているようにも聞こえる。(ちなみにアラシ隊員も怪獣という存在を人間社会の仲間入りが出来ない、攻撃もやむを得なしというスタンスを見せている。イデは雪ん子をみて複雑な心境になっていたが)
雪ん子が迫害される理由に更に拍車をかけたのが怪獣ウーの存在だった。雪ん子を残して死んでしまった母親の魂が転生したのがウーなのだが迫害が頂点に達した時ウーはついに暴れだしてしまう。それが雪ん子を更に追い込んでしまうとは気付かずに。
そのウーと戦うウルトラマンだが、その結末は雪ん子の暴れるのを止めてくれという呼び声に答えるように幻となって消えていく。その姿はまさに唖然とした様子でスペシウム光線も発射出来ず消えていくウーを見るウルトラマン。そして雪ん子も雪の中に埋もれて画面からフェードアウトしていく。
ウルトラマンには他の星の理に干渉できないという決まりがあるようだが、その設定を拾ってもウルトラマンは雪ん子を救うことは出来なかった。
ウルトラマンの絶対的な姿、万能性、そこから来る神秘性は確実に薄れていく。そして作品終盤、それは『敗北』という形で待ち受けていた……
ウルトラマンの神秘性
ウルトラマン、それも最初の奴を見ていると時々ぶつかる物がある。
それは『神秘性』という奴だ。
所謂第一期ウルトラシリーズ(ウルトラQ~ウルトラセブン)辺りのシリーズのファンの間で時たまにウルトラマンの神秘性や如何に、みたいな議論が交わされる事がある。
人間を超越した力を持っているからか?
遠いウン300万光年の彼方から来た宇宙人だからか?
その『ヒーロー』としての精神性の気高さからか?
個人的に考え、その神秘性という奴を吟味してみた……無いかも知んない。
こんなことを言えば怒られるかも知れない。だがなぜ無いと思ってしまったのか……
初代ウルトラマン第一話『ウルトラ作戦第一号』において、ウルトラマンは一番最初に何をしたか。
ハヤタ隊員の乗る小型ビートルと玉突き事故を起こしあわや死なせてしまうという良く考えたら大惨事を起こしてしまっている。
……とんでもねぇ!
死なせてしまったハヤタ隊員に一応の詫びを入れ、自分の命をあげよう、という行為(生き物に例えたら足下に屍を晒すセミに人間の命を与えようという位の行為)をした事が超越的な存在としてのアピールになったのか、ここでウルトラマンはその善性を見せるのだが変身アイテムのベーターカプセルを与えられたハヤタ隊員の『これを使うとどうなる?』という疑問に対してこの返し
『ヘッヘッへ、シンパイスルコトハナイ』
台無しだ。
何かの契約をして、後ろめたい所を隠す悪徳プロモーターみたいだ。
いや、良く考えてみよう。
この時点で怪しさ満点の宇宙人がなぜ国民的ヒーローへの道を歩み始めたのか。
ウルトラマンはこの後ピンチに陥ったハヤタ隊員がベーターカプセルを使って変身する事で怪獣を倒し人類を守るスーパーヒーローとしてデビューするが、都合の良い所をかっさらうだけでヒーロー扱いでは、出てくる人間がバカみたいだ。
ウルトラマンはその後も怪獣、宇宙人を倒し完全無欠のスーパーヒーローとして活躍する……のだがその完全無欠の牙城は早くも崩れ去った。
それが現れたのは第7話位だったか、『バラージの青い石』という話での事だ。
中近東を荒らしていた怪獣アントラーと戦うウルトラマンだがスペシウム光線が全く通用せず、逆に磁力光線に攻められどんどん時間が限界へと向かっていきカラータイマーの点滅も早くなってしまう。
結局の所アントラーはバラージの町を守っていた青い石を科学特捜隊のムラマツキャップがそれを投げつけ倒す(この時のムラマツキャップの強肩ぶりはよくネタにされる。身長40メートルクラスの怪獣に投げつけているので)。そして何故か勝ち誇るウルトラマンだが、ウルトラマンがアントラーを倒した訳では無い。
体を張って戦ってくれたのだからまぁ称賛の声を上げても誰も文句は無いだろう。だが問題はこの話の閉めだ。
舞台となったバラージの町は砂漠にその道標が埋もれてしまい、例え旅人がその町を見ても蜃気楼の中に浮かぶ幻の町としか捉えられないだろう、と寂しいオチが付く。今回ウルトラマンは怪獣を倒しきれず、そして老人ばかりとなってしまいやがては滅び行く町を救う事も出来ない。
このまま時点で完全無欠、万能といった所から生まれでる神秘性はもうほぼ否定されてしまっている。
これ以降、ウルトラマンの神秘性や万能性は他ならぬウルトラマンを作っているスタッフ達の映像、シナリオによってたまに炸裂するボディブローのようにぶちこまれ、否定されていく。だがその結果ウルトラマンはどんどん人気を上げていき、やがて物語の終演の頂点を極めたラストを迎えるのだがその話は次の機会に……
帰ってきたウルトラマン
DVDなどで見返してますがこの帰ってきたウルトラマンがなかなか面白い。
初放送が1971年。この年は公害が社会現象となっていて50年代後半から60年代にかけて起きた高度経済成長期のツケみたいなものが一気にぶり返していた時期です。一年前に大阪万博を開催していたにもかかわらずその先にあったのは重大な社会問題。
当時他にも特撮モノとしてはゴジラやスペクトルマン、そして仮面ライダーといった作品も公害といった物を受け止めた上で制作されていましたがそれは宇宙からやって来たウルトラマンにも影響を与えたようです。
帰ってきたウルトラマンは前ニ作の『ウルトラマン』『ウルトラセブン 』が近未来を設定としていたのに反し帰ってきたウルトラマンはまさに放送当時の1971年を舞台としていました。
つまり前ニ作のウルトラが基本的に人類全体の問題を怪獣や侵略者というフィルターで通していたのに対して帰ってきたウルトラマンは人類一人一人の問題、そこから生じるドラマを中心に展開される事になりました。主人公の帰ってきたウルトラマンに変身する郷 秀樹も時に自惚れ、時に悩み、宇宙人のウルトラマンと一体化しているにも関わらずその視点は物語前半から中辺にかけて人間そのもの、前作ウルトラセブンが宇宙人の視点からみたドラマに対して人間個人、人間視点からのドラマになりました。
これは主題歌のフレーズに『君にも見えるウルトラの星』というものがありますがこの『君にも』は人間一人一人から見るウルトラの世界観を意味している物と思います。
そして公害。ヘドロや光化学スモッグといった物は日本人のそれまで共通に、万博等を例えに見えていた未来への憧れを曇らせ現実の問題を当時の日本人全てに見せつける切っ掛けになったと思います。(学生運動等もあると思いますが)
そんな70年代に誕生するヒーローも現実の問題を見据えたモノとして生まれる事を必須としていたかのも知れません。そしてそれは宇宙からやって来たヒーロー、ウルトラマンにもやって来た。
人類共通の未来という物に陰りが生まれたからこそ帰ってきたウルトラマンは未来では無く現実の問題、そしてそれを起こす人間にスポットを当てるようになります。
次は帰ってきたウルトラマンの気になるお話から……
はてなブログデビゥ
主に趣味やその日その日に思った事を書きたいと思います。よろしくお願いします。